東京高等裁判所 昭和34年(う)2661号 判決
被告人 富田五郎
〔抄 録〕
所論にかんがみ、記録を精査しかつ当審において親しく事実の取調をした結果をも加えてしさいに検討してみると本件公訴事実は「被告人は、昭和三三年一一月二〇日午後四時頃日立市助川町一、九八一番地鈑金業征矢亀吉方事務所において森春雄当六二年と賃金のことから口論となり、同人に馬鹿にされているものと邪推激昂し、殺意をもつて、所携の平ヤスリを同人の顔面頸部等に数十回突き刺し、因つて同人をして左総頸動脈切断及左鎖骨下動静脈切断のため、失血死せしめたものである」というのであつて、右事実は後に説示するごとく本件記録にあらわれた証拠及び押収の証拠物によつて認定されるところであつて、なかんづく殺意のあつた点については、被告人の検察官供述調書第三項(とくに検察官が控訴趣意書中第一事実誤認についてと題するところに引用している部分)、司法警察員昭和三三年一一月二〇日付供述調書(警部補市毛俊二作成第三項及び同月二一日付同調書(同磯田茂作成)第一四項の各記載などによつてまことに明らかであつて、原審証人市毛俊二及び同磯田茂の各供述記載に徴するもその任意性ないし信憑性が否定されるわけのものではない。また原審鑑定人古川復一作成の鑑定書及び原審公判廷における証人としての供述記載によれば、被告人の本件犯行時の精神状態としては、てんかん性不機嫌に感情爆発性性格による憤怒が加わり急激かつ高度に意識障害が深まつていたものであり、これは常人の単なる怒りの感動による意識障害とは異り、被告人の素質的体質的な不機嫌と爆発性性格とによつたもので、明らかに病的であり高度の意識障害と認むべきであるというのであつて、関係人森ふゆじ、征矢亀吉、同忠義、石田嘉十郎及び鈴木みちよの原審又は当審の証言にあらわれた被告人の本件犯行前後の言動に徴すれば右鑑定人の見解は概ね妥当と認められ、検察官所論のごとく被告人が本件犯行当時なんらの意識障害もなかつたものとは肯認しがたく、さりとて原審弁護人の主張するごとくその障害の程度が極めて高く事物の理非善悪を弁識する能力なく又この弁識に従つて行動する能力のないものでありいわゆる心神喪失の状態にあつたものということはできないけれど、右障害の程度は、心神耗弱をもつて論ずべきものである。従つて、原判決のこの点に関する判断はまさに、正当であつたといわなくてはならない。しかしながら、このことの故に本件犯行について被告人の殺意が否定されるわけのものでないことは、もとよりいうを待たないのであつて、後に示すごとき関係証拠とくに前示被告人供述調書の各記載及び関係人らの証言にあらわれた本件犯行当時の被告人の言動なかんずく使用された兇器該兇器による突刺の個所の点などに徴すれば、殺意のあつたことは明白であるが故に殺意を否認した被告人の原審公判廷における弁解を措信して傷害致死の事実を認定した原判決には証拠の採用を誤つて事実を誤認した廉あるものというべく、右誤は判決に影響を及ぼすものであるから、検察官の論旨はこの点において理由があつて原判決は破棄を免れない。
(尾後貫 堀真 真野)